日本のお金の歴史/第 4 回
江戸のお金は金・銀・銭の 3 種類。枚数で数えるお金と、重さを量るお金
金・銀・銭の数え方と両替から、銀貨を金の単位で数えるようになるまでをたどる

千円札と一万円札は、どちらも円で数えます。では、江戸時代の小判と銀と銭も、額が違うだけだったのでしょうか。実は、枚数で数えるお金と、重さを量るお金が並んで使われていました。同じ国のなかで、どうやって交換していたのでしょう。
千円札が10枚あれば、一万円札1枚と同じ金額です。どちらも円で表せるので、額を足したり比べたりできます。
江戸時代のはじめには、金貨、銀貨、銭が使われていました。ところが、この三つは、額が違うだけのお金ではありません。金貨と銭は枚数で数え、銀貨は重さを量って使ったのです。
その仕組みを整えたのは、徳川家康が開いた江戸幕府です。幕府は金・銀・銭を発行しましたが、初めから全部を同じ単位で数えるようにはしませんでした。
小判は1枚。銀はどれだけ?
小判は、金で作った楕円形のお金です。1枚を1両(りょう)として数えました。小判のほかに、もっと小さな額の金貨もありました。たとえば一分金(いちぶきん)は、4枚で小判1枚と同じ額です。金貨の額は、両・分・朱(しゅ)という単位で数えました。1両は4分、1分は4朱なので、1両は16朱になります。
一方、銀で作った丁銀(ちょうぎん)や豆板銀(まめいたぎん)は、1枚をいくらと数えるのではなく、はかりで重さを量りました。使った単位は匁(もんめ)で、1匁は約3.75gです。銀貨を何枚持っているかだけでは、支払える額は分かりませんでした。
銭(ぜに)は、銅などで作った、真ん中に四角い穴のあるお金です。銭の額は、文(もん)という単位で数えました。のちに江戸幕府が作った銭は、1枚を1文として使いました。
1609年、幕府は金・銀・銭の交換比率を定めました。小判1枚と同じ額を、それぞれのお金で表すと次のとおりです。表の数字は、仮の例ではなく、当時の決まりです。
| お金の種類 | 数え方 | 幕府の決まりで、小判1枚と同じ額 |
|---|---|---|
| 金貨(小判など) | 枚数 | 小判1枚=1両 |
| 銀貨(丁銀・豆板銀) | 重さ(匁) | 銀50匁 |
| 銭 | 枚数(文) | 銭4,000文 |
お金の種類によって、単位だけでなく、枚数を数えるか、重さを量るかも違いました。 銀50匁は「銀貨50枚」という意味ではありません。
この表を使えば、小判1枚は銭4,000文と同じ額だと分かります。ただ、仮に20文の品物を買うとき、小判1枚を出しても、店は3,980文ものおつりを用意できません。小さな買い物をするには、先に小判を銭に替えておく必要がありました。
比率が決まっているなら、いつも同じ額に替えられる?
幕府が定めた交換比率を、公定相場(こうていそうば)といいます。「相場」は、ここでは一方のお金をもう一方のお金に替えるときの比率です。
ところが、実際の取引の比率は、幕府の決まりどおりに固定されてはいませんでした。江戸では商人どうしの大きな取引を主に「何両」と金の単位で、大坂や京では主に「銀何匁」と銀の単位で行っていました。江戸の商人が大坂から品物を仕入れると、手元の金を銀に替えて払う必要が出てきます。こうした地域の間の品物やお金の行き来などによって、交換比率は日々動いていたのです。
その交換を仲立ちしたのが、両替商(りょうがえしょう)です。町の人は、両替商の店で手持ちの金貨や銀貨を銭に替えました。銀を扱う店には、重さを量るはかりと、基準になるおもりがありました。大坂の有力な両替商の間で決まる交換比率は、各地の取引の基準にもなりました。
両替商は、交換比率が動くことでも利益を得ていました。仮に、小判1枚=銀50匁の日に、銀50匁で小判1枚を手に入れたとします。しばらくして小判1枚=銀52匁になったときにその小判を銀に替えれば、銀2匁が手元に残ります。
逆向きの交換もあります。小判1枚=銀52匁の日に、小判1枚を銀52匁に替えておきます。小判1枚=銀50匁になったときに銀50匁で小判1枚を手に入れれば、小判は元どおり1枚で、やはり銀2匁が残ります。比率が上がるときも下がるときも、利益を出す機会があったのです。
重さを量らずに使える銀貨へ
18世紀になると、幕府は銀貨の使い方を変えようとしました。
1765年、幕府は1枚が5匁の銀貨を発行します。丁銀と同じ質の銀を、5匁の重さにそろえたものです。その頃の公定相場は、金1両=銀60匁でした。幕府は、この銀貨12枚を小判1枚と交換させ、比率を固定しようとしたのです。
ところが、同じ質の銀なのに、丁銀ならその日の比率で、この銀貨なら12枚で1両と、替え方が2通りになります。金と銀の交換比率が動くことで利益を得ていた両替商は、強く反発しました。この銀貨は、うまく広まりませんでした。幕府が新しいお金と決まりを用意しても、交換を担う商人の協力を得られなかったのです。
続いて1772年に出した銀貨には、8枚を小判1枚と交換するという内容が刻まれていました。1枚の額は、小判と同じ単位の2朱。明和南鐐二朱銀(めいわなんりょうにしゅぎん)と呼ばれる銀貨です。
小判1枚は1両で、16朱ですから、この銀貨8枚で同じ額になります。銀で作られていても、支払いのたびに匁で重さを量るのではなく、金貨と同じ単位で枚数を数えて使えるようになりました。
「南鐐」は良質の銀という意味で、ほぼ純銀でした。ただし1枚は軽く、8枚に含まれる銀は、丁銀60匁に含まれる銀より少なかったのです。この銀貨の値打ちを支えたのは、含まれる銀の量ではなく、「8枚で小判1枚に換える」という決まりでした。そのため、初めはなかなか受け取られませんでした。
比率が固定されると、両替商が比率の変動で利益を出す機会は減ります。そこで幕府は、この銀貨を小判と交換するときに両替商が得をする扱いにしました。重さを量る銀貨より扱いやすかったこともあり、新しい銀貨は広く使われるようになります。その後も幕府は両替商にお金を積極的に貸すなどして広め、19世紀前半には、金の単位で数える銀貨が全国で使われるようになりました。
ただし、その後の取引から「匁」という数え方がすぐに消えたわけではありません。大坂の商人たちは、明治時代のはじめまで、銀の重さの単位で商品の売買などを続けていました。新しい銀貨が広まることと、取引の数え方がすべて変わることには、時間の差があったのです。
今日の研究結果
江戸時代のはじめの金・銀・銭は、今の千円札と一万円札のような額の違いだけではありませんでした。金と銭は枚数で数え、銀は重さを量り、単位も違っていました。幕府は交換比率を定めましたが、実際の比率は動き、両替商が交換を仲立ちしました。
その後、幕府は金の単位で数える銀貨を出しました。値打ちを支えたのは、含まれる銀の量ではなく、「8枚で小判1枚に換える」という決まりです。比率の変動で利益を得ていた両替商の反発を受けながら、幕府は手立てを打ち、この銀貨を広めました。ただ、大坂では匁で数える取引が明治のはじめまで続きました。
今の私たちは、千円札も一万円札も硬貨も、どれも円で数えます。だから、両替商を通さなくても、額を足したり比べたりできます。江戸時代のはじめには、それが当たり前ではありませんでした。

