財部(たからべ)教授のお金の研究室

日本のお金の歴史/第 4 回

江戸のお金は金・銀・銭の 3 種類。枚数で数えるお金と、重さを量るお金

金・銀・銭の数え方と両替から、銀貨を金の単位で数えるようになるまでをたどる

2026年10月2日に公開約7分で読めます

千円札と一万円札は、どちらも円で数えます。では、江戸時代の小判と銀と銭も、額が違うだけだったのでしょうか。実は、枚数で数えるお金と、重さを量るお金が並んで使われていました。同じ国のなかで、どうやって交換していたのでしょう。

千円札が10枚あれば、一万円札1枚と同じ金額です。どちらも円で表せるので、額を足したり比べたりできます。

江戸時代のはじめには、金貨、銀貨、銭が使われていました。ところが、この三つは、額が違うだけのお金ではありません。金貨と銭は枚数で数え、銀貨は重さを量って使ったのです。

その仕組みを整えたのは、徳川家康が開いた江戸幕府です。幕府は金・銀・銭を発行しましたが、初めから全部を同じ単位で数えるようにはしませんでした。

小判は1枚。銀はどれだけ?

小判は、金で作った楕円形のお金です。1枚を1両(りょう)として数えました。小判のほかに、もっと小さな額の金貨もありました。たとえば一分金(いちぶきん)は、4枚で小判1枚と同じ額です。金貨の額は、両・分・朱(しゅ)という単位で数えました。1両は4分、1分は4朱なので、1両は16朱になります。

一方、銀で作った丁銀(ちょうぎん)や豆板銀(まめいたぎん)は、1枚をいくらと数えるのではなく、はかりで重さを量りました。使った単位は匁(もんめ)で、1匁は約3.75gです。銀貨を何枚持っているかだけでは、支払える額は分かりませんでした。

銭(ぜに)は、銅などで作った、真ん中に四角い穴のあるお金です。銭の額は、文(もん)という単位で数えました。のちに江戸幕府が作った銭は、1枚を1文として使いました。

1609年、幕府は金・銀・銭の交換比率を定めました。小判1枚と同じ額を、それぞれのお金で表すと次のとおりです。表の数字は、仮の例ではなく、当時の決まりです。

お金の種類 数え方 幕府の決まりで、小判1枚と同じ額
金貨(小判など) 枚数 小判1枚=1両
銀貨(丁銀・豆板銀) 重さ(匁) 銀50匁
銭 枚数(文) 銭4,000文

お金の種類によって、単位だけでなく、枚数を数えるか、重さを量るかも違いました。 銀50匁は「銀貨50枚」という意味ではありません。

この表を使えば、小判1枚は銭4,000文と同じ額だと分かります。ただ、仮に20文の品物を買うとき、小判1枚を出しても、店は3,980文ものおつりを用意できません。小さな買い物をするには、先に小判を銭に替えておく必要がありました。

比率が決まっているなら、いつも同じ額に替えられる?

幕府が定めた交換比率を、公定相場(こうていそうば)といいます。「相場」は、ここでは一方のお金をもう一方のお金に替えるときの比率です。

ところが、実際の取引の比率は、幕府の決まりどおりに固定されてはいませんでした。江戸では商人どうしの大きな取引を主に「何両」と金の単位で、大坂や京では主に「銀何匁」と銀の単位で行っていました。江戸の商人が大坂から品物を仕入れると、手元の金を銀に替えて払う必要が出てきます。こうした地域の間の品物やお金の行き来などによって、交換比率は日々動いていたのです。

その交換を仲立ちしたのが、両替商(りょうがえしょう)です。町の人は、両替商の店で手持ちの金貨や銀貨を銭に替えました。銀を扱う店には、重さを量るはかりと、基準になるおもりがありました。大坂の有力な両替商の間で決まる交換比率は、各地の取引の基準にもなりました。

両替商は、交換比率が動くことでも利益を得ていました。仮に、小判1枚=銀50匁の日に、銀50匁で小判1枚を手に入れたとします。しばらくして小判1枚=銀52匁になったときにその小判を銀に替えれば、銀2匁が手元に残ります。

逆向きの交換もあります。小判1枚=銀52匁の日に、小判1枚を銀52匁に替えておきます。小判1枚=銀50匁になったときに銀50匁で小判1枚を手に入れれば、小判は元どおり1枚で、やはり銀2匁が残ります。比率が上がるときも下がるときも、利益を出す機会があったのです。

重さを量らずに使える銀貨へ

18世紀になると、幕府は銀貨の使い方を変えようとしました。

1765年、幕府は1枚が5匁の銀貨を発行します。丁銀と同じ質の銀を、5匁の重さにそろえたものです。その頃の公定相場は、金1両=銀60匁でした。幕府は、この銀貨12枚を小判1枚と交換させ、比率を固定しようとしたのです。

ところが、同じ質の銀なのに、丁銀ならその日の比率で、この銀貨なら12枚で1両と、替え方が2通りになります。金と銀の交換比率が動くことで利益を得ていた両替商は、強く反発しました。この銀貨は、うまく広まりませんでした。幕府が新しいお金と決まりを用意しても、交換を担う商人の協力を得られなかったのです。

続いて1772年に出した銀貨には、8枚を小判1枚と交換するという内容が刻まれていました。1枚の額は、小判と同じ単位の2朱。明和南鐐二朱銀(めいわなんりょうにしゅぎん)と呼ばれる銀貨です。

小判1枚は1両で、16朱ですから、この銀貨8枚で同じ額になります。銀で作られていても、支払いのたびに匁で重さを量るのではなく、金貨と同じ単位で枚数を数えて使えるようになりました。

「南鐐」は良質の銀という意味で、ほぼ純銀でした。ただし1枚は軽く、8枚に含まれる銀は、丁銀60匁に含まれる銀より少なかったのです。この銀貨の値打ちを支えたのは、含まれる銀の量ではなく、「8枚で小判1枚に換える」という決まりでした。そのため、初めはなかなか受け取られませんでした。

比率が固定されると、両替商が比率の変動で利益を出す機会は減ります。そこで幕府は、この銀貨を小判と交換するときに両替商が得をする扱いにしました。重さを量る銀貨より扱いやすかったこともあり、新しい銀貨は広く使われるようになります。その後も幕府は両替商にお金を積極的に貸すなどして広め、19世紀前半には、金の単位で数える銀貨が全国で使われるようになりました。

ただし、その後の取引から「匁」という数え方がすぐに消えたわけではありません。大坂の商人たちは、明治時代のはじめまで、銀の重さの単位で商品の売買などを続けていました。新しい銀貨が広まることと、取引の数え方がすべて変わることには、時間の差があったのです。

今日の研究結果

江戸時代のはじめの金・銀・銭は、今の千円札と一万円札のような額の違いだけではありませんでした。金と銭は枚数で数え、銀は重さを量り、単位も違っていました。幕府は交換比率を定めましたが、実際の比率は動き、両替商が交換を仲立ちしました。

その後、幕府は金の単位で数える銀貨を出しました。値打ちを支えたのは、含まれる銀の量ではなく、「8枚で小判1枚に換える」という決まりです。比率の変動で利益を得ていた両替商の反発を受けながら、幕府は手立てを打ち、この銀貨を広めました。ただ、大坂では匁で数える取引が明治のはじめまで続きました。

今の私たちは、千円札も一万円札も硬貨も、どれも円で数えます。だから、両替商を通さなくても、額を足したり比べたりできます。江戸時代のはじめには、それが当たり前ではありませんでした。

教授のコメント

外国のお金に両替するとき、比率が日によって違うのを見たことはありますか。次に両替の表示を見かけたら、その比率を誰が決めているのかを確かめてみてください。江戸でも、幕府の決めた比率と、両替商の間で動く比率は別でした。

出典

  • 日本銀行金融研究所貨幣博物館「常設展示図録・約650年ぶりの国家によるお金の発行」(32ページ)。家康による金銀貨の製造体制の整備と1601年の慶長金銀の発行を確認。2026-10-01に本文確認
  • 同館「常設展示図録・三貨制度」(33ページ)。小判・丁銀・豆板銀・銭の数え方、両・分・朱の関係、匁の重さ、江戸初期の公定相場を確認。江戸幕府の銭(1636年発行)が1枚1文で使われたことも確認し、1609年の時点の銭を1枚1文とは書いていない(それ以前は前の時代からの銭も使われていたため)。表は17世紀の基本形に限定し、後の枚数で数える銀貨や四文銭・百文銭まで一括して説明していない。2026-10-01に本文確認
  • 同館「常設展示図録・金貨の改鋳」(40ページ)。小判(1両)と一分金(1/4両)が常に同時に発行され、重さも金の含有量も4:1に作られたことを確認。2026-10-02に本文確認
  • 同館「常設展示図録・町の両替屋」(38ページ)。町の人が金銀を銭に替えたこと、丁銀の両替に使う天秤と分銅を確認。20文の品物とおつりの場面は仮の例で、当時の物価を示すものではない。小判を先に銭へ替える必要があるという説明は、この交換の仕組みを説明したもの。2026-10-01に本文確認
  • 同館「常設展示図録・両替屋と金銀銭の相場」(39ページ)。1609年の公定相場、江戸と大坂・京の取引単位、実際の相場の変動、大坂の両替屋の相場が各地の基準となったこと、明治初めまで銀の単位による取引が続いたことを確認。江戸の商人が大坂から仕入れて金を銀に替える場面は、江戸と大坂・京の間の物資の流通という記述から組み立てた例で、資料に場面として書かれてはいない。2026-10-01に本文確認
  • 粕谷誠「江戸時代の金融ビジネス」(東京大学 CARF ワーキングペーパー CARF-J-044、2008年、PDF 7ページ)。江戸は金遣い・大坂は銀遣いで、銭は端数の受け渡しや日常の小額の取引に使われたことを確認(本文の両・匁を商人どうしの大きな取引に限った根拠)。2026-10-02に本文確認
  • 同館「常設展示図録・小さな額面の金貨・銀貨の登場」(52ページ)。1765年の五匁銀と1772年の南鐐二朱銀、五匁銀の交換比率を固定する試みと、金銀相場の変動で利益を得ていた両替商の協力が得られなかったこと、金貨の単位で数える銀貨の発行、「南鐐」が良質の銀を意味することを確認。2026-10-01に本文確認
  • 小林延人「近世・近代日本貨幣史の基礎的研究」(日本銀行金融研究所貨幣博物館『常設展示リニューアルの記録』2017年、PDF 16ページ)。五匁銀が元文銀と同じ品位46%で量目5匁であること、南鐐二朱銀の品位97.8%と1枚の量目2匁7分を確認。8枚に含まれる銀(約21.1匁)と丁銀60匁に含まれる銀(約27.6匁)の比較は、この品位と量目からの計算。2026-10-01に本文確認
  • 山川出版社『山川 日本史小辞典 改訂新版』「南鐐二朱銀」(コトバンク)。額面に対して含まれる素材の価値が低く、当初は流通が滞ったことを確認。純度の高さが流通を助けたとする記述は、今回読んだ資料には無い。2026-10-01に本文確認
  • 同館「日本貨幣史・近世」。南鐐二朱銀の刻印が示す小判との交換比率、両替商への便宜と扱いやすさによる流通、幕府の両替商への積極的な貸付などの流通促進策もあって19世紀前半には計数銀貨が全国的に流通したことを確認。「小判と交換するときに得をする扱い」の具体的な中身(割合など)は資料に無く、書いていない。利益については、資料が述べる交換比率の変動に限り、手数料や利子の内訳は推測していない。本文の銀50匁と52匁の間で交換する例は、比率の変動で利益が出る仕組みを示す仮の例で、実際の取引の記録ではない。2026-10-01に本文確認

本文の制度の数値は 2026-10-02 に確かめたものです。改定されることがあるので、申込や手続きの前に公式の記載をご確認ください。

↑