日本のお金の歴史/第 3 回
国が作っていない中国の銭を、なぜ日本の人々は使い、なぜ断るようになった?
国が作っていない銭が、なぜ通用し、なぜ受け取りを断られるようになったのか

お金は、その国が作るもの。そう思うと、昔の日本で中国のお金が広く使われていたのは不思議ですね。しかも、幕府や朝廷が使用を認めたのは、人々の間に広まった後でした。人々は、何が便利でそのお金を使ったのでしょうか。
中国で作られたお金で、日本の買い物をする。年貢まで納める。12世紀から13世紀にかけて、日本ではそんな支払い方が広がりました。
使われたのは、銅などで作った丸いお金です。真ん中に四角い穴があるこのお金を、銭(ぜに)と呼びます。海を渡って日本に入ってきた銭は、渡来銭(とらいせん)と呼ばれています。
この時代、日本では、天皇や貴族を中心とする朝廷も、武士の政権である幕府も、銭を発行していませんでした。それでも中国の銭は、人々の手から手へ渡っていきます。外国で作られたお金を、なぜ受け取ったのでしょうか。
米や布で払うより、何が便利だった?
前の時代の日本では、米や絹、麻の布で値段を表し、支払いにも使っていました。そこへ12世紀半ば以降、中国から大量の銭が入ってきます。
米で払うなら、その米がどれだけあるかを量る必要があります。絹や布も、量を確かめなければなりません。銭は、基本的には1枚を1文(もん)として数えて使えました。「文」は、銭で金額を表すときの単位です。
銭なら、米や布の量をはかる代わりに、枚数を数えて支払えました。 貨幣博物館の図録によると、少額の買い物にも、大きな金額の取引にも使われています。
ただ、数えやすいだけで、どんな物でもお金になるわけではありません。品物を売る人が銭を受け取っても、その銭を次の買い物で使えなければ困ります。受け取った銭を、ほかの人への支払いにも使えることが大切でした。
銭は、日々の買い物や旅先の支払いに使われるようになりました。さらに13世紀以降には、米などの生産物の代わりに、銭で年貢を納めることも広がります。年貢は、土地から取れた米などを領主に納める負担です。
地方の市場(いちば)で米などを売り、受け取った銭を年貢として納める。こうすれば、米そのものを遠くまで運ぶより、荷物を軽くできます。年貢を受け取る側にも銭が渡り、銭で支払う場面がさらに増えていきました。
幕府や朝廷が認めたのは、広まった後
鎌倉幕府や朝廷は、初めから中国の銭の使用を認めていたわけではありません。人々の間に広まってから、その使用を認めました。
銭の使われ方を、時代名と一緒に並べてみましょう。
| 時代・年代の目安 | 政治の担い手 | 銭の使われ方 |
|---|---|---|
| 平安時代の終わりごろ。12世紀半ば(1100年代半ば)以降 | 京都の朝廷 | 中国から銭が大量に入り、人々が使い始める |
| 鎌倉時代。13世紀(1200年代) | 朝廷と鎌倉幕府 | 使用が広まり、幕府や朝廷も認める。年貢にも銭を使うようになる |
| 室町時代後半から戦国時代へ。15世紀後半(1400年代後半)以降 | 室町幕府と各地の大名 | 国内外で私的に作られた銭も混ざり、種類や形で受け取りを選ぶ動きが広がる |
| 戦国〜安土桃山時代。16世紀後半(1500年代後半) | 織田信長などの大名 | 中国からの供給が途絶える。西日本の大きな取引では、銭の代わりに米で払う動きも起きる |
中国の銭が広まったときは、人々が使うのが先で、幕府や朝廷が認めるのは後でした。日本の国が作った銭でなくても、買い物や年貢で受け取ってもらえたのです。
ただし、この表は数百年にわたる変化をまとめたものです。最初から最後まで、同じ銭が同じように受け取られたわけではありません。
どの銭でも、1枚は1文だった?
取引が増えると、支払いに使う銭も、もっと必要になります。ところが、中国から入ってくる銭は減っていきました。国内では、中国の銭をまねて作った銭も使われるようになります。中国からも、私的に作られた銭が入ってきました。
私的に作るとは、朝廷や幕府などが発行するのではなく、民間で作るということです。すでに使われていた銭をまねたものなので、「偽物でもお金になるの?」と不思議に思うかもしれません。
作った人が「これも1文です」と言うだけで、その銭が通用したわけではありません。銭を受け取る人にとって大切なのは、次の支払いでも使えるかどうかでした。銭が足りないなか、まねて作られた銭も流通したことは、受け取る側にもそれを支払いに使う理由があった、と考えられます。作り手だけでなく、受け取って使う人々が、その銭の流通を支えていたのです。
まねて作られた銭には、文字がはっきりせず、小さく薄いものも多くありました。15世紀後半以降、人々は銭の種類や形を見て、受け取るかどうか、どれだけの値打ちとして扱うかを選ぶようになります。この選り分けを、撰銭(えりぜに)といいます。
同じ枚数を差し出しても、同じ金額の支払いとして受け取ってもらえるとは限らない。こうなると、枚数を数えるだけでは支払いが済みません。銭の扱いは地域や時期によっても違い、取引は混乱しました。
幕府や大名は、受け取り方を決めようとした
室町幕府や大名は、銭を使う取引が滞らないよう、どの銭をどう扱うかという命令を繰り返し出しました。撰銭令(えりぜにれい)と呼ばれる命令です。受け取る人々の判断に加え、政治を担う側も、銭を受け取るときの共通のルールを作ろうとしたのです。
その内容は、命令を出した人や時期によって異なります。室町幕府は、とくに質の悪い銭の使用を禁じる一方、受け取りを断られやすい銭でも、一定の割合までならほかの銭に混ぜ、1枚を1文として使うように定めました。1506年の命令では、永楽銭などやひび割れた銭を、100文の支払いに32枚まで混ぜてよいとしています。これは、銭どうしを交換する比率ではなく、支払いに混ぜてよい割合を決めたものです。
1569年に織田信長が出した撰銭令も、銭の扱いを定めた例の一つです。信長は、それまで禁じられていた銭も使えるとし、銭によって価値が異なることを認めて、交換するときの比率を決めました。
銭の受け取り方を決める一方で、支払いに使うお金そのものも変わっていきます。16世紀後半には中国からの銭の供給が途絶え、1570年代の西日本では、土地など大きな取引の支払いに米が使われました。金や銀も、高額の取引に使われるようになります。
今日の研究結果
中国の銭は、枚数を数えて使え、買い物や年貢で受け取られるようになりました。日本の朝廷や幕府は、自ら銭を発行しなくても、人々の間に広まった銭の使用を後から認めました。
ただし、種類や質の違う銭が混ざると、受け取る側が選ぶようになり、1枚を同じ1文として使いにくくなりました。幕府や大名も、どの銭を受け取り、どう数えるかを決めようとしました。
「誰が作ったお金か」に加えて、「受け取った人が、次にどこで使えたか」。中国の銭が日本で使われた理由を考えるときは、その先の支払いまで追ってみてください。

